あるSNSに残っていた、私の6年前の3月の日記。
17年働いた前任の教会を離れる、最後の1ヶ月のときの心境が綴られています。
同じ3月。少しだけ似た気持ちを再び味わっています。4月からの変化を前にして。
記録として、転載しておきますね。
2018年3月某日 山陽教会にて
「休暇のような一月」
次の任地に移るまで、あとひと月。
「大変なお忙しさでしょう?」といたわられたりするけれど、実際はそうではないのです。もちろん、やることは山のようにあります。しかし、それはここまでフルタイムで直面してきた牧会の責任とは異質の、心身のエクササイズのような作業なのです。
2月の教会総会以降、もう教会は役員会を除くすべての会議が私抜きで行われています。新年度の現場に私が関わることはないからです。
今入門クラスに熱心に来られている方たちもありますが、この方達を洗礼まで導くのは、次の牧師のお働きです。私は養育の責任のない乳母のように、ただ御言葉のおいしさを与えるだけでよいのです。
今の期間はリハビリとも言えるでしょう。次の任地では、私の働きは「振り出し」にもどります。17年前のように、教会の様々な修繕(下手!)や、力仕事(非力!)、事務作業(ミスだらけ!)を自分でするのでしょう。その感覚を取り戻す時期が与えられたのだと思います。
同じことがまた起こるのでしょうか?礼拝を重ねる中で愛が育ち、人々が増え、それぞれの能力が用いられ、次第に牧師は御言葉の働きに特化していくのでしょうか?
庭仕事を手伝いに出てもすぐに「先生は先生の仕事をしてください(≒邪魔するな)」と言っていただく、そんな教会が育つのでしょうか?それともそんな教会は山陽の地でのみ実現したひとつの特殊な形なのでしょうか。
17年に過ぎない、しかもたった一つの教会だけでは、教会論を語ることはできないでしょう。
結局はキリストがすべてを導かれ、教会を形作られ、人々を救われるのです。私は一つの器官として働けて、どこまでも幸福でした。
そんな振り返りをさせて頂ける、平安な3月です。
2018年3月某日 山陽教会にて
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