昨日は、私は吉備教会に残って、一宮からの配信で礼拝していました。前面の大型スマートテレビで、YouTube配信を受信しての礼拝です。吉備教会では、今月は3回の日曜日がリモートです。
一つ一つが新鮮でした。
驚いたのは、「生」の礼拝とリモート受信の礼拝の空気感が同じだったことです。列席される皆様は、時間前にすでに着席されて静かに待たれ、司会者の挨拶に応答され、聖句をともに読み、祝祷で起立されていました。
リモート礼拝は少なくともユナイティンチャーチにおいては、「準礼拝」でも「亜流礼拝」でもなく、「礼拝」なのだな、と知らされたことでした。
この日は珍しく受信に遅延と途切れが発生し、そういう意味では私がいてよかったな、と思いました。
(とはいえ、スマートテレビは有線LANになっており、原因はYouTubeのシステム側かな?と思うのですが・・。)
ユナイティング・チャーチは、一宮と吉備の二教会だけではなく、遠隔地において礼拝出席されている多くの方たちも含めた総称と私は考えています。
先日の東京訪問で、やはりそれぞれの礼拝者の方たちも、各家庭で「礼拝」をされているのを実感したことでした。
リモート礼拝が終わり、ある年配のご夫妻が帰るのを少しだけお手伝いしました。特に奥様が足腰に痛みがあり、両脇で抱えるようにして靴を履くまでお手伝いしました。
帰宅中に一度でも転んだら、もう病院から出てこれない、そんな状態であることを私は知っています。
でも、ご夫妻は礼拝が嬉しいのです。(ちなみに求道中)
教会から外に出ると、奥様が「イッチニ、イッチニ」と声をかけ、ご夫妻で足並みを揃えて帰って行かれました。
この方達にとって、礼拝は前日から始まるのでしょう。準備をし、体調を整えて、日曜日に備えているのだと思います。
この方達は一例です。同じように、礼拝を生活の中心にされている方たちを多く知っています。
ご夫妻の背中を見ながら思ったです。
こういう思いで礼拝される方たちに、それだけの価値がある説教をしなくちゃ。
礼拝への情熱を持つ多くの人たちのために、それにふさわしい礼拝でなくては、と。
一方で、これだけの礼拝者たちが集われているということたちは、ここまでユナイティングチャーチが、その価値のある礼拝と配信をし続けてきた、ということだと思います。あらためて関係者(祈り手たち、ゲストの説教者たち、世話役のみなさん)、奉仕者たちに感謝と敬意を表したいと思います。
そんな働きの場に身を置かせて頂き、光栄に思っています。ありがとうございます。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
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