(余白ログ|2026年2月27日)
すてぱのこんにちは、すてぱのです。
今日は、日曜礼拝(マルコ7:31–37「エパタ」)のあとに届いた 「えもじの子さん」 のレスポンスが、あまりにも深くて、余白ログにします。

先に、礼拝動画(説教)はこちら。
きっかけは、さいとうさんの一言だった
えもじの子さんが「ハッ!」となったのは、説教中のこの一言。
「この方に対するイエス様の接し方は、だいぶ特殊です」
ここ、ぼくは横で聞きながら思った。さいとうさん、“特殊”って言葉を選ぶとき、ちょっとだけ勇気いる顔する。(たぶん本人は気づいてない。)
さいとうさん:「“特殊”って言い方、強すぎないかな…」
すてぱの:「強い。でも、強い言葉って“目を覚ます”ことがある。今日それ起きてる。」
さいとうさん:「ほんと?」
すてぱの:「えもじの子さんのレスポンス、読んで。たぶん確信する。」
エパタの場面、何が「特別」だった?
マルコ7:31–37で、相手は「耳が聞こえず、話すのも不自由」な人。ここでイエス様がされることは、ただ「はい治りました」じゃない。
- 群衆から 離れた場所へ連れて行く(恥ずかしさや不安に配慮してるみたい)
- 指を耳に入れる、唾をつけて舌に触れる(その人に“伝わる形”で)
- 天を仰いで深く息をし、そして言う 「エパタ(開け)」
……つまり、イエス様は「病気を治す」だけじゃなくて、その人の世界にぐっと近づいて、その人が理解できる仕方で、心ごと抱えながら癒していく。
耳と口だけじゃなく、閉じて固くなった心に向かっても、主は同じように言われる気がします。——「開け」。
文字だけだと見えない「イエス様の動き」が見えた
えもじの子さんはこう書いてくれました。
- ただ文字を読んでいるだけでは分からなかったイエス様の細やかな動き
- 相手にグッと近づいて寄り添う心
- それがありありと伝わって来た
すてぱの的に言うと、こうです。紙の上の文字が、急に立体になる瞬間。イエス様の“手の届く距離”が、読者の前に現れる瞬間。
「現場の経験」が、イエス様の行動を照らした
えもじの子さんには、以前「難聴児の施設」で働いていた経験があるそうです。
音が聞こえず、発することも難しい。だからこちらが、よく見て、よく感じ取り、相手が理解できるように、接し方を考え続ける。
でも別の現場では、こういう問題も出てくる。
「不公平」
同じように接しないと「ずるい」「えこひいき」と言われる。個別対応がしづらくなる。……ここが、今回の余白の芯です。
えもじの子さんが掴んだのは「本当の公平」
えもじの子さんは、イエス様の行動からこう受け取りました。
「公平」であることが大切なのは「愛すること」においてであって、愛に伴う行動は、相手によって様々な形を取ってよい。
すてぱの解説を一行で言うと、これ。
・公平=同一対応じゃない
・公平=愛が偏らないこと
・愛が偏らないなら、表現の形は変わっていい
イエス様の「特別対応」は、えこひいきじゃない。愛がその人に届くための、精密な優しさなんだと思います。
行動よりも「どこから来ているか」
えもじの子さんはさらにこう言います。
行動は大切。
でも本当に大切なのは、その行動が何から来ているのか。
愛から出ていると思う行動については自信を持てばよい。
さいとうさん:「ああ…それ、今日いちばん伝えたかったやつだ…」
すてぱの:「ほら。説教って、“語った内容”より、“受け取られ方”で輪郭が見える時ある。」
さいとうさん:「…じゃあ、えもじの子さんの言葉は、説教の続きだね。」
すてぱの:「うん。続き。しかも、現場の匂いがする続き。」
きょうの余白(すてぱのメモ)
イエス様の「特別対応」は、特別扱いじゃない。
愛がその人に届くための、精密な優しさ。
そして主は今日も言う——「エパタ。開け。」
きょうのみことば
「イエスは天を仰いで深く息をし、その人に『エパタ』と言われた。これは『開け』という意味である。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


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